2007年5月10日 (木)

歩いて元気になりました!

Imgp1059 この日傘、10年も前から使っているお気に入り。
最初は純白そのもの、でもだんだん黄ばんできて染めたくなっていました。

さ、さんてなにげに物知りで、おもしろい情報をお持ちの方。
私は、傘を染めるなんて、浴槽でするか、ベビーバスが必要と思っていました。
なーるほどー、溶いた染料を細長いビニール袋に入れればいいのですって!

この傘の一番好きなところは、日傘にしては「ワンタッチ」のところです。
紺色か緑色に染めるつもりです。さ、さんありがとう。Imgp1050

今日も花の道を歩きました。
都合5キロは歩いたかなあ。
これはめずらしい色のエニシダです。Imgp1051

ポピーも咲いていました。
とても疲れました。
午後から嵐になるというので急ぎました。

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2007年5月 2日 (水)

一安心でした

Imgp0864 両アゴが痛くなったので、
リンパ腺でも腫れたかと驚いて、
近所のクリニックへ行ったら、
血液検査の結果、アミラーゼ値が異常に高いといい、
日医大病院に紹介状を書いてくださった。

痛みは1~2日で消えていたけれど、今日やっと診察を受けに行きました。
病歴を聞かれましたが、この年まで、これといった大病は何もなかった。
考えてみれば、ずいぶん健康だったなあ、と感慨深かった。
日医大の先生の診断も、異常なし!

夜更かしはいけない。夜遅くものを食べてはいけない。
口の中はいつも清潔にするように、との注意だった。
夜更かしにはちょっと耳が痛い。

帰る道々、「身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也」を思い出した。
孝とはいざ知らず、やはり両親からいただいた身体が健康なのはありがたい、
しみじみと感謝の気持ちで、家の近くまで来ると、七華ちゃんからメール。
おばあちゃんが落ち着かないから早く帰ってきて、ですって。

それにデュランちゃんが下痢。今度はペットクリニックへ車を走らせました。
注射を打って貰って、なんとか落ち着きました。
人間様より高い診察代、ああ・・・

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2007年2月22日 (木)

今日も歩いた

歩きました。片道ゆっくり歩いて45分を、往復。
怪獣の爪もかくやと思うほどの、大きくて紅い木の芽。
まだ咲き誇っている紅白の梅林。

垣根の月桂樹の葉をちぎって匂いを嗅ぐと、とてもいい香り。
早めの春ですが、快適には違いありません。

ただ、ふとあの身を切るような冷たい風が、
なつかしくなったりもします。
勝手なものです。

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2007年2月 8日 (木)

歩け歩け

Dscf4058 うわぁーきれい、満開です。
紅白の梅、非常に清新な気分にさせられる美しさ。

今日の大岡信の「折々のうた」

二もとの梅に遅速を愛す哉  蕪村

早咲き遅咲きの微妙さを愛すといっているのだそうですが、
色の違い、二色もまた愛ずべきおもしろさでしょうね。

今日は多分4キロくらい歩いたと思います。
また歩こう、歩くと脳のなかもすっきりするような気がする。

今夜10時から、テレビで二宮君の「拝啓父上様」を見るので、
早めにお片づけして、また明日。

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2007年2月 2日 (金)

ベランダは花盛り

Dscf3330 暖冬のせいか、ベランダの花は絶えない。
花は機械的に咲くわけではない。
物質のうちでも、一体として生活機能を持ち
生きているものはすべて、すなわち生物として、
他の物質から区別される。

みずから運動して生きて死ぬものはすべて、
有機体である。人間も有機体のひとつである。

アメリカの心理学者ロジャーズは、有機体としての
人間を洞察している。人間は道具ではないし、
もちろん機械などでは当然ない。

数百年まえから、すでに感じ始めてはいたのだが、
多分これほどまでに地球が破壊されはじめていることを、
目の前につきつけられては、反省せざるを得ないはずだ。

けれど、遅れている人は、いつの時代にもいる。
学ぶと言う謙虚さに欠けているのかもしれない。

今の日本では、宗教を持っている人を、なんとなく
ばかにしているようなところがある


宗教心のあるひとは、実は謙虚なひとだ。
いにしえの賢者に教えを請うつつましいひとだ。

自然科学万能の世の中に生まれてきてしまった私たちは、
かなり不幸なようだ。

絶対的に信じるに足るものがないなんて、不幸すぎる。
しかし、もっと不幸なのは、人間を無機質な道具のように
見えてしまうひとかもしれない。

人間は生きて感じ、意志を持って行動し、知恵もある。
道具じゃないし、まして機械でなんかない。

これほどまでに人間を傲慢にしてしまったのは、
宗教心を失ってしまったからかもしれない。
ふとそんなことを考えさせられた数日である。

Dscf3382

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2006年12月22日 (金)

クリスマスダンスパーティー

Dscf3558 出かけるまで、やめにしてしまおうか、と迷っていた
ダンスパーティだった。

夜出かけるのはほんとうに億劫。
長年の習慣で、夜は家にいて、眠くなったらすぐ
寝られる態勢にしておきたいほうなのだ。

そのくせ夜更かしで、なかなか寝ない。
つまり出不精なだけだろう。

やっと出かけて行った。とにかく踊れないので、
気疲れする。汗をかいたが、冷や汗だろう。

しかし、身体を動かした後の爽快感は何ものにも
替えがたい。

私にとってダンスは運動と同じなのだ。
早く上手になって、思う存分踊りたいものだ。

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2006年12月11日 (月)

踊る楽しさ

Dscf3631 若いころは、きっちり習わなくても、見よう見真似で
なんだって踊れたのに、今のこの物覚えの悪さは、
どうしたことだろう。

ひと月たって、やっとジルバがなんとか踊れるようになった。
なんとか踊れれば、下手なりに楽しいものである。

ダンスを踊るひとはみんなスマートで、姿勢がいい。
私が習っている女の先生は、資格をとるのに10キロ痩せたと言っていた。
別の男の先生からは、あなたなら20キロ痩せるでしょうって言われた。
それは先生の資格をとるために、毎日練習しているひとで、
1週間に1回や2回踊っても、とても痩せるまでにはいきそうもない。

もうすぐクリスマスパーティーがあるので、ひとつくらい満足に踊りたい。
先生がデモンストレーションするというので、私は憂鬱だ。
こんなに踊れないのに、もしパーティで踊ってくださいって言われたら、
どう言えばいいんですか、と聞いたら、
ワルツならワルツしか踊れませんので、ワルツのときお願いします
と言えばいいのですって。すると覚えていて、ワルツのとき
踊ってくださいと言いに来るから大丈夫ですって。

こちらは、断ったらもう2度と踊ってくださいって、
言ってもらえないのではないかとおたおたするわけだ。

ただ習っているだけなら、気楽でいいのだが、
それじゃあいつまでたっても上手になりませんと言われてしまった。

音楽を鑑賞するのもいいけれど、曲に合わせて踊るのも
ほんとうに楽しいものだ。
無邪気に踊った若き日が今更のようになつかしい。

ワルツが上手に踊れるようになりたい、と言ったら、
女性はみんなそうなんだそうだ。
アルトサックスのテネシーワルツなどが流れてくると、
胸がきゅんとなる。

でも私はシュトラウスのウインナワルツを、華やかに踊りたいなあ。
そんな風に踊れるのはいつのことやら・・・

かつて、友だちと歌曲を習っていて、上手になったら、
デイサービスや老人ホームで歌いたい、と言ったら、
友だちのご主人に、早くしないと自分が歌ってもらうほうになる、
と言われた。ダンスも同じだろうな。

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2006年11月29日 (水)

ことだま

Dscf3369 早いものですねえ。もう今年もあと1ヶ月。
街にはクリスマスの飾りがあちこちに見かけられます。

友人から「いろいろ大変だったけれど、好きな歌がうたえて
幸せな1年だった」と、メールが来ました。

「言霊」ってあるのですよね。そのメールで、私もとても幸せな気分になりました。

大人たちはなるべく気持ちのいい「言霊」を、発しなければいけませんね。
「言霊」は自分自身も気持ちよくするし、回りにも伝染するのですね。

Dscf3372 便利で快適な世の中になったのに、
ひとびとの心が荒んでいたのでは、
なんだか口惜しい感じですよね。

私たちは便利でスピードのある生活に、
なんとなく規格にはまった、非人間的な部分を感じているみたい。

突っ走っている生活を、ちょっと立ち止まってみるのも
いいかもしれません。

実はこれって、私自身への忠告なんです。

Dscf3363

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2006年11月18日 (土)

健康診断―身体髪膚

Dscf3186 「身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也」

身体髪膚之を父母に受く敢て毀傷せざるは孝の始めなり。
(身体はっぷこれを父母に受くあえてきしょうせざるは孝の始めなり)

中学か高校の漢文の時間に習った孔子の孝経であるが、
忠孝の思想は、戦争のおかげで、すっかり毛嫌いされてしまった。

今日は市の誕生月無料健康診断で近所の医院へ行ってきた。
詳しい結果は後日であるが、今日のところ、非常に健康ですと言われた。

とくに具合の悪いところはないと思っていたが、
やはりお医者様に保証していただくとさらにうれしいものである。

帰り道にはすっかり身も心も軽くなって、
「身体髪膚、これを父母に受く」ということばがしきりに思い出されて、
この健康な遺伝子をいただいたことに感謝したくなった。

このごろ電車に乗ると、毎回のようにどこかしらで人身事故があり、
時間の遅れを報じる車内放送がある。
ああ、今日もまた絶望したひとが、1人命を絶ったのか、と
なんとも残念な想いである。

キェルケゴールが「死に至る病とは絶望のことである」と、言っている。
絶望の淵を歩くひとたちは、ふとした瞬間にあの世への塀を
軽々と乗り越えてしまうのだろうか。
希望無しにはひとは生きられない。
それほどまでに希望を失ってしまうとは、残念なことだ。

まして、若い命が失われたと聞くと、いかにも無残である。
死語のようになってしまった、孔子の教えなどが
今更のように甦ってくる。

「愛国心」を植えつけようとすると、愛国のためには死をも
いとわないという方向に簡単に行きそうである。
「忠義」も同じような方向である。
「孝行」も個人主義の現代にそぐわない。
孔子の教えには、人間を管理しやすく導く思想があるだろう。
ところがなんのその、孔子の教えなど借りてこなくとも、
現代のの管理教育はなまやさしいものではない。
子どもを絶望させるほど追いつめている。
いじめられる方はもちろんだが、
いじめる方だって、生半可な心理状態ではないだろう。
だから、孔子の教えはよくないというと、はて、
説得力のある思想哲学はどこにあるのだろう。

病院の待合室で読んだ週刊誌によると、
殴る蹴るパンツを脱がす脅す・・・
「いじめ」の実態は凄まじいものがある。驚くべきものだ。
よく知りもしないくせに、ああだこうだと言うのは
気が引けるのだけれど、子どもたちがこうした「いじめ」の
渦中で絶望の淵を歩き続けているとは、あまりにも悲惨だ。

それも、学校と言う逃れられない小さな社会で
日々繰り広げられているとは、恐ろしいことである。
学校はある種の治外法権的な場所である。
権力を揮えるのは行政であり、抗議できるのは
当事者の親である。

しかし親だけの力でどうにもならないとき、
少なくとも、行政に対してもの言うくらいの情報と、姿勢は
国民全体が平等に持っているべきではないだろうか。

誰が本当のことを言い、何がどういう方向に向かっているのか、
正しく把握しようという意気込みで国民全部が、
国会や行政に睨みをきかせていないととんでもないことになる。
こういうときメディアが正しく働けば、強力である。

このまま、せっかくこの世に生を受けて、
貴重な体験をするはずだった子どもの命が、
絶望の淵に追い落とされて行くのを、
手をこまねいて見ているより他はないとは、未来の社会の行方が心配だ。

そうはいっても、私の非力では手も足もでないのが現状だ。

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2006年11月15日 (水)

ダンス!ダンス!

Dscf3142 今日はルンバを習った。
ツースリーフォー、ツースリーフォー、フォーワン!

いいですかぁ、フォーワンですよぉー、
ツースリーフォー、ツースリーフォー、

あのー、どうしてワンツースリーじゃなくて、ツースリーフォーなんですか?
と、質問する私。もう、理屈で考えようとするから、ぜんぜん覚えない。

身体で覚えなければダメなのだ。ああ、だめなのだ!
およそ、スポーツに限らず、まず習い始めは、ひたすら
繰り返すことが必要なのだ。語学だってそうでしょう?

おまじないのように繰り返し繰り返し練習しているうちに、
ある日突然できるようになったり、わかったりするのですよねえ。

私ときたら、とにかく納得しないことには、1歩も先に進まない。
本を借りたり買ったりしたのに、あまり役に立たない。

昔、叔父から、スキーやテニスを習った。
叔父は、非常に論理的な人で、理論から入った。
スキーを教えてもらったときも、まず、スキー場に行く前に、
カラー写真の教則本をあてがわれて、それをじっくり見せられた。
パラレルクリスチャニアってなんだっけ、回転?
そう、言葉から先に覚えさせられた。
私が唯一叔父の役に立ったのは、
叔父が急斜面をクリスチャニアで滑降してくるところを、
何枚か写真に撮ったことだ。
叔父は写真を見て嬉しそうだった。

テニスもそうだった。まず本を貸してくれた。
スマッシュってなんだっけ、相手の方に激しく打ち込むのですよね。
インパクトがどうでこうで・・・結局ラリーも満足にできなかった。

叔父はもういない。天国で、私の物覚えの悪さに、
あきれ果てて、笑っているかもしれない。
ダンス?うん、やってごらん、と笑っているに違いない。
叔父は明大のグリークラブだった。
叔父はダンスも上手だった。
ちょっとうるさいくらいに思っていい加減に習っていたけれど、
いま、ダンスに四苦八苦していると、叔父がなつかしい。

覚えが悪いくせに、理屈で考えるから始末が悪い。
叔父さんなら、きっと私が納得いくように教えてくれるのになあ、
なんて、都合のいいことを考えている。

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2006年11月 8日 (水)

眼鏡のいらない1日

Dscf2987 今日はダンスの日なので、眼鏡無しで済まされる快適な
1日でした。

老眼にならないときは、1.5ときには2.0も視力があって、
ものを見ることに関しては、実に快適でした。

それが、眼鏡がなければ、困ることばかりで、常時眼鏡を必要として、
はじめて、眼鏡無しの快適さを思い知ったのでした。

眼鏡と肥満、それが当面の悩みです。

他のひとの踊る姿をみながら、早く痩せたいなあ、と思っていたら、
ダンスでは痩せませんと言われてしまいました。

水泳をはじめたときも、水泳では痩せませんて言われたっけ。

え、じゃあどうすればいいの?
食べないことです。

えーっ、食べない?食べる楽しみを失ったら、なんだか惨めな気がする。
食べないで、痩せて、スマートになって、それからどうするの?

でも、このままでは、生活習慣病突入!ガーン!

車をやめて、チャリンコにすれば痩せるわよ・・・
うーん、それもかなり決断を要するわ。

だから、萩原葉子のように、踊って踊って踊りまくればいいのですよね。
あの方、あのバイタリティーはどこからでてきたのかしら。

不思議な勇気を与えてくれる踊る作家です。

私も、せめて、眼鏡無しの日が出来たことを感謝して、踊ろう!

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2006年11月 6日 (月)

おお mistake!

Dscf2985 今日が休校日だと言うことを失念して、
眠いのに頑張って学校へ車を飛ばしたのに、
門を入ると嫌な予感、守衛さんに見破られた。

守衛さんとは仲良しだ。制服着ているから誰が
誰だかわからないけれど、守衛所のわきの小さな
花壇に立ち寄って、ときどきお花を観賞させていただいているから。

しかし、またやったあ。「やっと家を抜け出して来たのにぃ」
守衛さん、お気の毒様と言わんばかりに笑っている。

「失念」というのは、仏教用語では、
「心を散乱させる煩悩のひとつ」とある。

まさにご名答。うっかり忘れ、などというには程遠い、
私の煩悩のなせる業です。

昨日、超狭い我が家に、ぎりぎり残されたスペースに置ける
本棚を注文してきた。

引越してきてから、寄付したり、フリーマーケットで売ったり、捨てたりした
何十箱という本。もう本は図書館に限ると決心したのに、どうやら再び
本は増えはじめて、だんだん足の踏み場もないほどになってきている。

完全に煩悩のないひとはお釈迦様ぐらいのものだろう。
ひとは、どこかしらに何かしらのやっかいな煩悩を抱えて生きている。

私の煩悩は、物を捨てられない、そのところにあると思う。
生まれたときは、無一物だったのに、そして死ぬときもまた、
丸裸にされるのに、なんて未練たらしい私なんだろう。

それと言うのも、私の記憶力に自信のないせいだ。
だから、特に本などは1度読んでも忘れてしまうから、
手元に置きたいと思って、つい買ってしまうのだ。

我が「忘れるひと」なんか、私がなんでも忘れてしまうのに呆れて、
「なんておまえは忘れっぽいの、私なんか1度聞いたら絶対に忘れないね」
と、若いころはあいた口がふさがらないと言わんばかりだった。

それじゃあ、私が「忘れるひと」の年齢になったら、どんなに忘れることだろう。
うゎーやだ!!

これから死ぬまでに、どのくらいの失念を繰り返して臍をかむのだろう。
そのたびに、おお、mistake!といって、逃避するのだろうか。

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2006年11月 1日 (水)

ダンスって考えると難しくなる

Dscf2929 今年の紅葉は、あんまり・・・
まあ、この方が切なくない。

あの暮れてゆく秋を突きつけられるような、
激しく紅葉した景色に出会うと、なぜか胸を衝かれる。

ああ、生きてるんだという想いが強まる。
美しいものに出会ったときの感動かも知れない。

ダンス教室、今日はルンバですって。
L・O・Dですよ、L・O・Dって繰り返されたって、わかりやしない。

なにしろ何十年ぶりだしなあ、
仕事の関係のパーティーで、踊ろう踊ろうと誘われたころ、
チークダンスまがいでやなこった、
「私、上手な人としか踊らないの」
なんて言って煙に巻いていたら、本気にされていたらしい。

だから、いまさら大変。ステップ踏むのがやっとこさ。
大汗かいて、へとへと。
熱心な先生で、なかなか休まない。
「先生、頭の中真っ白」と言ったら、
やっと休ませてくれた。

終わってから図書館に飛んでいって、
「初めてのダンス」関係の本を漁って、
言葉の意味から考えていると、
ますます難しくなって混乱する。

もう、開き直って、汗かくために、踊ろう!!

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2006年10月25日 (水)

Shall we dance?

Dscf2852 何十年ぶりのダンス?
オドロキ、モモノキ、ダンスがこんなに楽しいものだとは。

仕事を辞めたとたん、どんどん肥り始めた。
これはヤバイぞ、何か運動をはじめないと大変なことになる。

私のまあできますと言えるのは、水泳くらいのもので、
テニスや卓球も習うには習ったけれど、持続しなかった。

いまさらのテニスは屋外での紫外線が気になる、
水泳は、濡れた後の後始末が大変、
卓球がいいかな、ヨガがいいかな、などと思いあぐねていた。

出合ったのが社交ダンスでした。
作家の萩原葉子がダンスに凝って、
フラメンコにまで及び、自宅にスタジオまで作ってしまった、
それも健康のために始めたというような話だった。

ダンスも悪くないなと思っていた。はじめてのその日会う約束をしていた
近所の友人を誘ったら、1も2もなく乗ってきて一緒に見学に行き、即決。
とうとう二人で入会してしまった。

昔々、友人のお兄さんの大学でよくダンスパーティーがあった。
パー券とかいって買わされて踊りに行った。
うん、楽しかったけれど、長続きはしなかった。
遠い昔のことだし、もうダンスに縁はないと思っていたのに、
今日で2回目、すっかり虜になってしまった。

音楽に合わせて身体を動かすことで、
これほど開放的な気分になれるとは、思いも寄らないことだった。

音楽が好きならば、リズミカルな音楽なら、ひとりでに身体が動く。
若いころのように気取らなくても済むから、楽しいばかり。

このところ、クイッククイックスロースローで頭の中がいっぱい。
いつかあの「Shall we ダンス?」の映画みたいに踊れたらいいなあ。

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2006年9月21日 (木)

人生の道筋

Dscf2193_1 一昨年の暮れ、脳梗塞で倒れた叔母の見舞いに行ってきた。

倒れたときのショックからはかなり立ち直って、デイサービスに行かない今日は、マッサージ師や、看護師の訪問を受けて、結構忙しそうだった。

独身の息子と暮らしているが、2,3駅離れたところに住む娘が、通ってきて世話をしている。

私を読書に導いてくれた叔母だ。祖母の日本の昔話とは違う、シンデレラ姫や乞食王子など西洋の物語を、まだ、独身だった叔母から、毎晩毎晩飽きもせずに聞いて過ごした時期がある。

きっぷがよくて、姉である私の母を訪ねてくるときには、山ほどのお土産を担ぐようにして持ってきてくれた。

私が赤ん坊のころ、大きなキューピーさんを買ってきてくれたけれど、帰りの電車賃がなかったそうだ、長い間の語り草だった。

記憶の衰えた母に確かめようもなくなったことを、今日はたっぷりと聞かせてもらってきた。

人生に様々な出会いがあるが、私に大きく影響した叔母だと思っている。

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2006年9月12日 (火)

CIR

Dscf2075 私のコラージュです。なんだか散漫な感じ。初めて学校の実習でつくったときは素晴らしいのができて、今でもとってあります。

今日は交通機関に恵まれなくて、もちろん私の出だしがよくなかったのですが、遅刻しそうになって、乗った特急が下北沢までノンストップ、もう行ったり来たり、図に描けばじぐざぐ行進のようでした。

でも、しばらくぶりで貼り付けに専念して、楽しいひとときでした。それに暑いうちはペットボトルの水で済ませていたのに、今日はコーヒー好きの相棒が、おいしいコーヒーを入れてくれて、ラッキーでした。

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2006年9月11日 (月)

占い

Dscf2025 図書館の帰りに、散歩がてら駅ビルに行った。最近エスカレーターのそばのコーナーに、占い師が来ているのを見ていた。

ふと、寄ってみたくなった。いったい私の運命とはどんなものなのだろうか。行こうと思っていた旅行も中止になったし、一人旅を考えていたところ、2人もの人から頼まれごとをしたし、旅は先へ延ばして・・・それでちょっと無駄遣いをしてみたくなった。

狭いコーナーに入って座るより早く、なにか困っていることでもおありですか?と聞かれた。私より少し年配の女性だ。別にないんですけれど、占いって初めてだもんですからちょっとどんなものかと思って、というと、そうですねそのお顔では悩み事はなさそうですね、と言われた。

生年月日や姓名を聞かれて、まあ、なんて私の運勢の強くて良いこと、すごいじゃない。そうですか、当たっていますわ、を連発して帰ってきた。まだ若いのですからボーイフレンドも作りなさいですって!家へ帰る道のりくらいはすっかり励まされて意気揚々、そのうち熱も冷めてきた。でもたまにはこんな無駄遣いもしなければ息がつまる。一つ良かったことは、この無駄遣いのお陰で、無駄な食料品を買わずに済んだこと。太る一方ですから。

今日の夕食は、焼きなすと、なすの味噌汁、レタスとトマトのサラダ、きんぴらごぼう、えのき茸の壜詰、古代米を入れて炊いた赤いご飯、うわあヘルシー。

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2006年8月 9日 (水)

愉快に歩けば

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今日は落ち込んだ。昨日七華ちゃんから手厳しく批判されたからだ。何事かと言うと、私がお母さんぶって偉そうに説教するのが嫌なんだって。ママはその器じゃないって。だってママはママだものお母さんぶるわよ。お母さんであっても師匠じゃない。そうかなあ、母親は最高のの教師だって言うわよ。優秀な人ならばね。ママは優秀じゃないもん。はあ~!?!?・・・・

今朝七華ちゃんと顔を合わせたとき、ママ落ち込んでいるの、ゆうべ七華に怒られたから、と言ってみた。別に怒ってやしないわよ、私が嫌がることをしないでってたのんだだけじゃないの。でも、難しくて不可能なことだから、怒られたのと同じよ。どうせ、1日か2日すれば忘れて元気になっちゃうくせに。私の憂鬱などどこ吹く風の体だ。

それもそうだなあ。落ち込んでいると勉強もはかどるようだ。シャワーを浴びて腰の治療院へ行った。少しスリムになったような気がするのですけど。それはあるかもしれませんよ、マッサージによって身体の機能が促進されたと思いますから。なんだかうれしいですねえ。痛いけれど使わないとダメになるっていいますが、痛むときは炎症をおこしているのですから休ませるのが大切です。治ってから動かしてください。そんな会話をかわしながら、100円のエアーマッサージも快適だった。

それから、無謀にも遠い焼き立てパンやさんまで歩いた。今夜は元気がないからご飯の支度をしたくない、サンドイッチや調理パンを買い込んで済ませるつもりだ。カメラでそこここを写しながら歩いているとだんだん元気になった。

結局七華ストレスによる私の落ち込みは、ものの1日ともたなかった。それとも歩く健康法によったかな。先生に内緒で、歩いてしまったわけだが、気持ちは晴れ晴れした。腰も痛くならなかった。

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2006年6月30日 (金)

CIRカウンセリング研究会

Cir_005 Cir_006                     

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初対面で会話がはずまないとき、対話の方法を見失ったとき、あるいはボランティアなどの援助する過程でその方法に迷ったとき、既製の写真などを切り抜いて貼り付けるこの作業は、かなり有効に、私たちの関係を開いてくれます。

私たちは、10万円くらいの箱庭を購入することを目指していますが、箱庭に負けない有効な手段として、また、軽く持ち運び自由の利便性などから、取りあえずの技法としてコラージュ体験に、力を入れています。

作業を終わった後の解放感はまた格別です。手軽にアートの世界に遊べ、達成感ももたらされます。

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2006年6月 3日 (土)

しゃっくりの止め方

今日は、我が「忘れるひと」と1日、図書館で過ごした。ほんとうは学校へ行きたかったが、結局サボった。それに、「忘れるひと」のために、手押し車?みたいなものをレンタルしたので、試してみたい気持ちもあった。介護保険で、月額300円で借りられたのだ。

駅の近くの図書館まで、私の足で徒歩10分のところを、30分くらいかけて行った。最近かなり足元が危うくなってきて、杖1本では近くのスーパーまで歩くのがやっとで、帰り道はすっかり疲れて、何度も休まなければならないほどだった。身の回りのことはしっかりできているのに、このまま歩けなくなってしまうのでは、私も不便で困ると思っていた。やっと思いついたのが、この手押し車だ。スーパーのカートにヒントを得た。スーパーに行くと、カートを押してどんどん歩くのに気が付いたからだ。この手押し車なら、途中疲れたら休めるように、簡単な腰掛まで付いているのだから、少々遠くまで行けると思った。駐車違反もうるさくなって、そうそう車でちょっと行って路上駐車というわけにはいかなくなってきたこともある。

なんと便利なことに、私の重い勉強道具を乗せてもらえる籠までついていたので、のろのろ歩きも苦にならず、目に鮮やかな若葉やさつきの花々を楽しみながら歩いて行った。 図書館に着くと、二人の席を確保して、「忘れるひと」を読み物のある書架の前に案内して、好きな本を読んでいて、私はあそこにいるから、と私たちの席を指差して教えて、早速私は勉強にとりかかった。チラッと見ると、「忘れるひと」の横顔は微笑んでいるようにみえた。選り取りみどりの書架の前で、子どものように喜んでいるのだと思った。

それから2時間勉強して、同じフロアのカフェで、「忘れるひと」はフルーツサンドとホットミルク、私はカレーライスの昼食を摂った。さっきの席が冷房の加減で少し寒かったので席を変えると、隣は女子高生だった。彼女は寒いのか上着を肩から羽織ったりしていたが、そのうちしゃっくりをはじめた。それがなかなか止まらない。なんとなく気になって落ち着かない。私は勇気を出して彼女に言った。け、む、し・・・、そして彼女の上着の後ろの方をじっとみつめた。最初彼女は半信半疑だったのか無表情に私を見た。け、む、し?・・・、今度は疑問形で言って見た。もう1度、け、む、し・・・今度は確信ありげに言った。やっと彼女は本気にしたらしい表情になった。ややしばらくして、・・・ね、しゃっくり止まったでしょ、私は言った。彼女は首を横に振って胸をおさえ、止まらないと言う仕草をした。でも、止まってるじゃない。また、彼女はそんなはずないみたいに、首を振った。だってほら、止まってるでしょ・・・。やっと彼女は頷いてくれた。

子どものころ、私が「忘れるひと」から教わったしゃっくりを止める法だった。どういうわけかびっくりすると、しゃっくりは止まるのだ。私も七華には何度も試みた。大きくなるにつれて効き目は薄れていくようなので、様々に工夫をこらして、新手のびっくりさんを考えなければならなかったが。

夕方まで図書館で過ごして、勉強も進み、俳句も10句できて、残すは課題句1句のみとなった。それが未だできない。こじつけるしかないなあ。想像力の欠如だ、などと考え考え歩いていると、「忘れるひと」はご機嫌でうれしそうに、こんないいもの私に買ってくれたの、ありがとうと繰り返していた。

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2006年5月27日 (土)

CIRの新しい仲間

今日は新しい仲間をCIRに迎えることができて、うれしい日だった。メンバーがかもしだすやさしさとつつましさとかつ情熱的な語り合いのひとときは、家路についてもなお安らぎに満ちた余韻を保ち続けることのできる、貴重な集いだった。

新メンバーも、まっすぐに社会に向けられた視線の鋭さと愛に溢れた行動力が、ものしずかな呼吸の中にいきいきと息づいている素晴らしい人だ。

私たちはこころの問題を考えるとき、まったく個の中に埋没して何かを見失っていく。その「何か」それは私たちがどんなに孤独に感じようとも、孤独になりたくとも、やはり社会の中の個であるということだ。社会的動物なのであるということだ。それは個に対して社会も責任があるが、個もまた社会に対する責任があることにほかならない。そんなことを考えさせられた。

新メンバーのおかげで、会話にひろがりができた。前半自己紹介、後半コラージュ製作だったが、切抜きを貼り付けながら話すみなの話があまりにもゆたかで情緒溢れるものだったなので、聞き惚れていて、切り抜きばかりに終始してしまった。製作できなかったのは残念だ。

メンバーは人の話を聞くことが実に上手だ。しかし、その難しさをも充分に知っている。反省し後戻りもしつつ磨かれて行く「傾聴」への努力は、メンバーたちに会うたびに大きな成果となって私の胸に響く。

戦後の教育では、自己表現できることが課題だった。人前で堂々と話をできることのみ強調されて、人を言い負かすことばかりに熱心になり、いつの間にか人の話を聞き、そして考える姿勢が忘れられてしまったような気がする。ひとの集まったところでは、単に声の大きい人の意見がむやみにまかり通ってしまうような傾向すらある。よく考える人たちにとって、それでは話したくもなくなるだろう。お互いが疎外しあって、孤独感を募らせる。これは単なるパソコンやテレビ等の機械のせいばかりではないだろう。

こんなことを考えていると、なんだかCIRが貴重な秘密結社のように思えてくるほどいとおしい・・・うわー自画自賛、手前味噌!?!?

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2006年5月22日 (月)

愛犬の死ということ

職場で、失語症のひとを迎えに行くと、なかなか玄関から出てこない。奥さんが出てきて、玄関の中へどうぞと言う。入ると今日は取り込みがあって、と言った。それから、どうするんですか、行くんですか、休むんですか、と奥へ呼びかけている。あー、うー、とはっきりしない。どっちだかわかりやしない、と奥さんが言った。愛犬が死んだと言うことは後で知った。彼は愛犬の死に、疲れていたのだ。トレーニングなどする気分ではなかったのだろう。

16歳だとうかがったのは、つい先週のことだ。いつも私が迎えに行くと、門のところまで出てきて吠え立てるので、苦手な犬だった。それが連休を境にして、すっかり変わってしまったと言うのだ。私も実際、連休の後で行った際には2匹目の犬かと思って、もう一人のわんちゃんはどうしました?と言ってしまったくらいだ。すっかりおとなしくなって、よろめくように歩き、私が行っても吠えもしないのだ。いいえ1匹だけです、同じ犬ですと言われて驚いていたばかりだ。

昔、知り合いの犬が老衰で死ぬときは、奥さんが夜中に抱いて外に連れ出し、小用をさせるので、大変だったと聞いた。しかし、この犬は、最後まで自身の足で、よろめき出て、用を済ませたと言う。犬も人間と同じで、寝たきりになって長く人手をわずらわすのもいれば、この犬のように死ぬその日まで、必要最小限のことはやってのけるのもいるのだ。

死んだ犬はきっと、失語症の彼の最高の友人だったに違いない。次に車に乗ってきた84歳の男性は、私が歌が好きなのを知っていて、卯の花の匂う垣根に、とハミングした。今日ばかりは一緒に歌う気になれず、かといって犬を飼っていない彼に犬の死を伝えてもどう感じるかわからず、だまってその歌が終わるのを待った。ただ、失語症の彼に寄り添う気持ちで、車を走らせた。

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2006年5月20日 (土)

こだまの会

脳梗塞で半身が麻痺して、外出が不自由な方のお供をして、失語症のかたたちの集まりに行って来た。みな、よく話す。「ことば」という最高のコミュニケーションの手段を失ったときに感じる不自由は、身体の自由を失ったに匹敵するとも劣らない大問題だろう。それを乗り越えて、「話す」ことを再獲得したひとたちの場、あるいは獲得するための練習の場として、会が発足した。ことばを失うということは、さまざまなケースがあるが、ひとの話したことは理解できるがいざ自分が話そうとしてもことばが出てこない、話せてもなかなかスムースに話せないので疲れるし、だんだん話すのが億劫になってくる。そしてつい引きこもりがちになる、とこれだけのことは知った。また会長は、単にボランティアさんたちのお膳立てに頼るのではない、自分たちで考え、自分たちで会を運営して行く意識を持とう、と呼びかけていた。

大学院で文学を研究している。文学は「ことば」がもっとも多様に作用し、「ことば」を最大利用し、「ことば」が重要な因子をつかさどって成り立っている学問なのにもかかわらず、いざレポートを書くだんになると、借り物のむずかしいことばで表現してことたれりと、書きなぐって仕上げて逃げをうってしまっている自分に気が付く。ああ、だめだ、だめだ、と今日は非常に勉強になった。

あきれるほど饒舌な母の影響か、幼児期から私はことばに強い関心を抱いた。ことばの魅力もことばの魔力も私を引き込んで離さない。そうして、ことばで表現する楽しみも苦しみもときには空しささえもが、私の生きるささえになってきた。かつては、それが単なるイメージのなかで繰り返される絵空事のようであったが、学校と言うありがたい場に助けられて、もちろん発表できる『窓』や、『五時通信』や詩の会や、俳句の会に参加できて、多分私にとって最高の現在かも知れない。「ことば」をもっと有効に駆使しよう。

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