「身体髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也」
身体髪膚之を父母に受く敢て毀傷せざるは孝の始めなり。
(身体はっぷこれを父母に受くあえてきしょうせざるは孝の始めなり)
中学か高校の漢文の時間に習った孔子の孝経であるが、
忠孝の思想は、戦争のおかげで、すっかり毛嫌いされてしまった。
今日は市の誕生月無料健康診断で近所の医院へ行ってきた。
詳しい結果は後日であるが、今日のところ、非常に健康ですと言われた。
とくに具合の悪いところはないと思っていたが、
やはりお医者様に保証していただくとさらにうれしいものである。
帰り道にはすっかり身も心も軽くなって、
「身体髪膚、これを父母に受く」ということばがしきりに思い出されて、
この健康な遺伝子をいただいたことに感謝したくなった。
このごろ電車に乗ると、毎回のようにどこかしらで人身事故があり、
時間の遅れを報じる車内放送がある。
ああ、今日もまた絶望したひとが、1人命を絶ったのか、と
なんとも残念な想いである。
キェルケゴールが「死に至る病とは絶望のことである」と、言っている。
絶望の淵を歩くひとたちは、ふとした瞬間にあの世への塀を
軽々と乗り越えてしまうのだろうか。
希望無しにはひとは生きられない。
それほどまでに希望を失ってしまうとは、残念なことだ。
まして、若い命が失われたと聞くと、いかにも無残である。
死語のようになってしまった、孔子の教えなどが
今更のように甦ってくる。
「愛国心」を植えつけようとすると、愛国のためには死をも
いとわないという方向に簡単に行きそうである。
「忠義」も同じような方向である。
「孝行」も個人主義の現代にそぐわない。
孔子の教えには、人間を管理しやすく導く思想があるだろう。
ところがなんのその、孔子の教えなど借りてこなくとも、
現代のの管理教育はなまやさしいものではない。
子どもを絶望させるほど追いつめている。
いじめられる方はもちろんだが、
いじめる方だって、生半可な心理状態ではないだろう。
だから、孔子の教えはよくないというと、はて、
説得力のある思想哲学はどこにあるのだろう。
病院の待合室で読んだ週刊誌によると、
殴る蹴るパンツを脱がす脅す・・・
「いじめ」の実態は凄まじいものがある。驚くべきものだ。
よく知りもしないくせに、ああだこうだと言うのは
気が引けるのだけれど、子どもたちがこうした「いじめ」の
渦中で絶望の淵を歩き続けているとは、あまりにも悲惨だ。
それも、学校と言う逃れられない小さな社会で
日々繰り広げられているとは、恐ろしいことである。
学校はある種の治外法権的な場所である。
権力を揮えるのは行政であり、抗議できるのは
当事者の親である。
しかし親だけの力でどうにもならないとき、
少なくとも、行政に対してもの言うくらいの情報と、姿勢は
国民全体が平等に持っているべきではないだろうか。
誰が本当のことを言い、何がどういう方向に向かっているのか、
正しく把握しようという意気込みで国民全部が、
国会や行政に睨みをきかせていないととんでもないことになる。
こういうときメディアが正しく働けば、強力である。
このまま、せっかくこの世に生を受けて、
貴重な体験をするはずだった子どもの命が、
絶望の淵に追い落とされて行くのを、
手をこまねいて見ているより他はないとは、未来の社会の行方が心配だ。
そうはいっても、私の非力では手も足もでないのが現状だ。
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