日米安全保障条約
わたしたちが、戦争はもうしたくない、平和憲法を守ろうと言っているにもかかわらず、何故いつまでたっても実現できず、アメリカにいろいろな要求を押し付けられているのでしょうか。
それは、日米安全保障条約というものがあるからです。
この条約の存在は日本国憲法9条に違反していることはあきらかなのに、自民党や民主党は口をぬぐって、むしろこの条約があるからこそ日本は安全なのだ、などと詭弁を弄しています。
これらのことは、いつの選挙でも明確に議論されることはなく、今回の選挙においてもマニュフェストは、まず日常生活の保障に終始しています。
安保条約のような根本的な問題が解決されない限り、これではいつまでたっても日本国民のための日本の自由な政治は行われません。
1951年9月、敗戦日本はサンフランシスコ講和条約=平和条約において、日米安全保障条約に調印しました。
これは、講和後もアメリカ軍が安全保障のために日本に駐留し、基地を設定することを定めたものです。この基地の存在のために日本は莫大な国民の血税を献上し、また、基地周辺の人々は騒音や、アメリカ兵の横暴のために様々な被害を受けてきました。
1954年9月にはアメリカの要請で、日本国憲法9条によって日本は戦争を放棄したのだから軍隊は持たない、と決まっているはずの日本に自衛隊が発足しました。
この安全保障条約は、当初10年ごとに見直すという決まりがありました。それですから、10年後には、絶対にこの危険な条約を撤回してもらおうと、心ある人々は考えていたのです。にもかかわらす・・・
1961年1月、ワシントンにおいて岸元首相は新安保条約、地位協定に調印してしまったのです!
この年、5月には事後承諾の形ですが、自民党が、新安保条約を国会で単独強行採決してしまいました。
このときは、ほんとうに学生や日本の将来を心配した民衆が、デモ隊を組んで国会に押し寄せ「アンポハンタイ」「アメリカの傘」はいらない、ほんとうの自主独立の国家になりたいと、抗議しました。
このときですよね、樺美智子さんという東大の優秀な女子学生が権力側の乱暴な阻止によって亡くなられたのは。聡明で美しいあの方が犠牲になってしまったのは・・・
おかげで未来ある多くの優秀な学生が、どれほど権力への無力に絶望したことでしょう。「長いものにはまかれよ」なんていうあきらめムードが、民衆の中に根をはりはじめたのはあのころからでしょうか。
それでもあの時は、アイゼンハワー大統領の訪日中止、岸内閣は退陣せざるをえなくなりました。・・・かならずしも無力ではなかったんじゃないかしら。
あのときの意気を堅持し続けることができていれば、なんて思うのはまだ子どもだったいちごの遠吠えかな。それに、みんなひとりひとり生活していかなければならなかったんですよね。自分で稼いで自分で食べていかなければならなかった。
給料をもらって生活している政治の専門家のようなわけには行きません。
1964年8月には、池田内閣がアメリカの原子力潜水艦の寄港を承認してしまいました。あのときも、必死で佐世保に駆けつけて、「原子力潜水艦、帰れ!」と人々が叫びました。
それからその時まで、沖縄は日本の領土ではなかったのですよね。あの大戦時悲惨の限りをなめつくした沖縄が、今度は米軍の犠牲者になってしまったのです。沖縄に行き来するにはパスポートがいったのせすよ。信じられます?
そして、次の安保条約10年後を期して、いろいろな働きかけをした学生や識者がいました。
アメリカもこれはヤバイと感じたのでしょうか、1969年11月ワシントンで佐藤首相とニクソンアメリカ大統領が会談。結果沖縄が日本に返還されました。しかし「核基地つき」合意でしたねえ・・・
1970年6月、沖縄返還を喜んでいるうちに、安保条約は自動延長になってしまいました。ああ・・・もう、10年ごとの見直しもなく、完全にアメリカの傘の下に入れられてしまいましたねえ。
1978年11月、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)が閣議で了承されました。ここには、日本国憲法第9条に違反するようなことが、たっぷりと盛り込まれていたのです。その上、在日アメリカ軍への思いやり予算」の合意がありました。
国民の血税をたっぷりとお金持ちの国アメリカに献上するのです。
1981年1月、鈴木首相とレーガン大統領が会談して、「日米同盟関係」を明記し、いっちょうことが起こったときには、一緒に戦うんだと硬い約束をしました。
9条で、「国の交戦権はこれを認めない」とありますが、これはどうなってしまうのでしょう。
1983年1月、中曽根首相とレーガン大統領が会談して、「日米運命共同体」「不沈空母」化などを表明しました。
1991年1月、湾岸戦争が勃発しました。すると、4月には自衛隊掃海艇が派遣されました。平和日本の安全な自衛隊のつもりで入隊した人々が、なんて危険な任務を帯びてよそ様の戦場に駆り出されたことでしょう。
1992年6月、国民の違憲の抗議を埋没させるべく、国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させて、文句を言わせなくしてしてしまいました。すぐ9月にはカンボジアPKOの派遣となりました。自衛隊員にけが人はなかったのでしょうか、案外建設現場の労災と同じで、秘密裏に処理されていたかもしれません。
1995年10月、いつも沖縄に駐留するアメリカ兵の被害にあっている沖縄の人々が、このときアメリカ兵の少女暴行事件に抗議して、8万5千人もの人々によって集会が開かれました。8万5千人ですよ、すごいですねえ。それほど沖縄の人々は被害にあい続け、怒っていたのですよ。
1996年4月、橋本首相とクリントン大統領が会談して、「安保再定義」の日米安保共同宣言を発表しました。まったく、首相が変わるたびに、なにか日本がどんどんアメリカに対してもののいえない立場に追い込まれているみたい。それとも、首相になりたければならせてやる、そのかわりぃ~おおこわっ!
1997年9月「日米防共協力のための指針」(新ガイドライン)に合意?
1999年5月アメリカ軍支援の「周辺事態法」など新ガイドライン関連法「戦争法」が成立してしまいました。
2001年4月には、このようになしくずしに、小泉首相が「集団的自衛権の行使」などという「憲法9条改定」を言明するまでに追い込まれてしまいました。
アメリカは自国の拉致被害者は即取り戻すけれど、日本の拉致被害者にはまったく消極的で、被害家族のかたたちは、どう思っていらっしゃるのかしら。
アメリカは自国の利益のためには、日本をも巻き込む勢いだけれど、もし日本が独自に戦争をはじめたからといって、すぐに飛んできて解決に導いてくれるわけではないということを、アメリカに頼っている人々は肝に銘じておかなければならない。
それよりも、仲良くする算段を!言うべきことは言える算段を!
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